性別が、ない!

Director's Note

セクシュアル・マイノリティの存在を私たちはどう受け止めてきたのだろうか?

自分とは別の人間。〝普通″じゃない、関わりたくない人たちという通念が、その存在をいつも見えない、見ない存在にしてきたように思います。

いわゆるLGBTという一括りにされた当事者たちが何を考え、どう生きているか、直接各カテゴリーの彼らを個別的に取材するのでなく、何かの、誰かのフィルターを通すことによって、見えてくるものもあり、そういう対象が何か、ずっと考えていました。

僕自身、なぜ、セクマイに興味を持ったのかって?

彼らの中に自分がいるかもしれない、そして自分の中にも彼らがいるはずだと思っていたから・・・。それを自分なりに見極めたい。それが制作者としての僕の基本的態度であるべきだと思うから。

それがどこまでできたかは、わかりませんが。

監督 / 渡辺 正悟

渡辺正悟

1951年、広島県生まれ。長年、テレビドキュメンタリー番組のプロデユーサー・ディレクターとして、紀行・民族・医療・伝統芸能・歴史・戦争・音楽・アートなどの大型番組を制作。一貫して、人間の営みのドラマ性を追求。

2012年北米最大の国際ドキュメンタリー映画祭Hot Docs
正式招待作品「会田誠 駄作の中にだけ俺がいる」

強烈な4コマ漫画に打ちのめされて

そして、エッセイ漫画家の新井祥さんのギャグマンガと出会ったのです。

第一印象は強烈でした。ストーリー漫画に慣れ親しんでいた僕は、破壊力のあるギャグセンスに驚かされつつ、ユーモアにあふれたまなざしが当事者の読者にやさしく語りかけているようにも感じました。そして、僕にとっては、なによりも4コマの間の、コマとコマの間に見え隠れする表現者としての新井さんの絶対的な孤独や激しい生きざまが、葛藤が、気になってしょうがなくなりました。

自らが当事者であり、表現者である新井さんの生身の根っこの思いを取材できないかと思ったのです。
新井祥という表現者の根っこ、と漫画表現というフィルタ-を通した読者とのつながりにとても興味がわいてきたのです。あわよくば、頭が抜群に切れる漫画家の、当事者としての精神の井戸の底を覗いてみたいという欲望が僕を突き動かしたのです。
しかし、そんな大それたことを果たして新井さんは受けてくれるのか、自分にそんな能力や資格があるのか、正直、五分五分の気持ちで臨みました。

メールによって、僕の考えや撮影のアプローチを説明し、名古屋で新井さんとこう君に会うことになりました。
その段階で、新井さんは既に取材を受けてくれることを決めていたようです。
しかし、どのように撮影をすすめればいいか?とりあえず、カメラが二人に寄り添うことで、リアルな彼らを理解できるはずだと思って撮影を開始しました。あらかじめイメージを決めつけしないで、セクマイについてすべて、ゼロから教わるような気持で進めていくことにしました。

撮る側、撮られる側としての関係を構築することからロケは始まりました。彼らが社会に対して感じる“壁”をどうしたら私たちも実感できるのか?果たして、彼らの側に私たち制作者が本当に立つことができるのか?
この作品はそれが問われる現場でした。

医学的でもなく、分析的でもなく、生き方を選びとる主人公の勇気ある人生に迫ることを目指した作品です。
規制の多いテレビでは描けない、セクシュアリティと愛の赤裸々な問題を映画ならではのエンターテインメント表現でチャレンジしました。

テーマは最初には、ない!

この作品を撮る時、考えたのは撮る前にテーマは設定しないでおこうと決めました。
まず、目指したのは、“人の物語”でありたいということ。

メッセージを届けるための素材として、セクマイの当事者を撮るということは絶対避けたいということでした。我々は、インディーズ映画だから、だれに注文を付けられるわけでもない。物語を撮り進める中で、テーマは自然に立ち上がってくるだろうと。主人公たちを取り巻く状況がテーマを導いてくれるだろうと思ったのです。
堅苦しいテーマなんかいらない!

撮影初日、インタビューが熱気を帯びて来て、新井さんの口調が激しくなり、撮影的には“おいしい”シチュエーションだったのですが、カメラマンと私は、一息入れるため、中断し、家の外に出たのです。なんとなく一呼吸入れるべきだと思ったのです。
この映画に臨む新井さんの本気度がほとばしった気がしました。

家の近くには、そこそこ大きな川が流れていて、土手を歩きながら、私は確信したのです。
この映画は漫画家・新井祥とアシスタントのうさきこうとの人生を描く物語になるだろうと。取り立てて、何か劇的な出来事は必要ない。淡々とした日常を撮ればいい。日常の中で交わされる何気ない二人の会話や生活があれば、それ自体がドラマだと思えたのです。

狭い家の中の撮影は、たくさんのスタッフでは身動きがとれない。スタッフは監督とカメラマンだけで臨もう。特機を使う時だけ、助っ人してもらって、人があまり介在しない、撮る側、撮られる側が2対2で始めることにしました。
主人公たちは、川の近くに住み、風景として常に川が見える生活。これは彼らの人生を象徴する風景になるかもしれない。
人の人生はよく川の流れにたとえられます。この川の近くで、ひっそりと暮らす二人。質素で、ところどころ破れがあり、修理の手を全く入れてない、それでいて、ここを住みかとして選んだことだけが唯一、ぜいたくな感じがする不思議な家でした。何か家そのものが二人の決意や覚悟を表しているようにも思えたのです。ここで繰り広げられる生活を撮れば、いけると妙な確信をもって、土手道から二人の家に帰ってきました。

あとで、わかるのですが、僕たちが家を急に飛び出した時、新井さんたちは、僕たちが新井さんの本音と本気度に腰を抜かし、逃げ出したのだろうと思ったそうです。
きっと、この映画は成就しないだろうと思ったらしいです。

新井さんがカメラの前に立った理由

「“立ち止まり方”を覚えるいい機会かも・・・」

これまでの生き方、そして自分という存在を見つめなおさなければならないと考えていたーそういう時期に差し掛かっていたといいます。
それがどういうことなのか、撮影が進むにつれて、我々にも徐々にわかってくるのですが、なにより新井さん自身がそれを予感し、カメラが入ることにより、それが露わになっていくことになるだろうとわかっていたのです。カメラが入ることで、その踏ん切りをせざるをえなくなり、それはとても勇気のいることだと思いました。

自分がどう露わになってゆくか、見極める勇気と決断―。
人生の行く先を選び取る激しさー。
当然、不安は計り知れないほどあったことだと思います。新井さんの人生の中で、なんどもこうした決断があったことを僕たちはのちに知ることになりました。

映画公開の旅

東京、名古屋、大阪、横浜と大都市中心に公開と宣伝の旅をしてきましたが、やっと、地方にも「映画」が旅をすることになりました。これまで、劇場や新井さんのフアン、映画のサポーター、メディアの人たちのおかげで、盛況に公開が行われてきました。
皆さんに感謝です。さて、12月は、かねてより、要望があった東北(仙台)・北海道(札幌)の方たちにも映画を届けることができそうです。本作はエンタメではないので、少し、時間がかかりますが、一歩ずつ公開の場を求める、「旅をする映画」の宿命と思っています。瞬間風速の華々しさで、あっという間に終わり、そんな映画もあったねと、後々、言われない息の長い作品でありたいと思っています。皆さんのご支援・ご協力で口コミでゆっくり確実に広がってゆく作品でありたいと思っています。そして、一人でも多くの人の心に届けたいと思います。そのためにも、反響や興行もそれなりに収め、映画館の皆さんにもやってよかったと思われる映画でなければなりません。一層のご支援をお願いします。

尾道、我がふるさとでの公開

尾道での上映が決まりました。尾道は私が高校時代に3年間、通った街です。
当時は瀬戸内の島回りの巡行船で島々を回って、学生や勤め人を乗せてゆく船で、本土の尾道に通ったものでした。本土への橋はまだなくて、島育ちの自分にとっては、尾道は大都会でした。
朝7時出発の、片道1時間の船通学は、春先には濃霧が発生すると、欠航して午前中の授業は間に合わず、11時近く、恥ずかしそうに教室にこっそり入っていったものでした。当時、本土尾道の映画館は2軒ほどあり、松竹の劇場によく行きました。お気に入りは“寅さん”でなく“座頭市”、そして、たまに来る「18禁」の映画。学生服を脱いで、そのために買ったジャンバー姿でチケット売り場では顔を見られないように、こっそり入りました。バレバレでしたけど、きっと大目に見てくれたのでしょう。

島という辺境の地と都会との文化的落差は僕のこれまでの映像作品の基本的モチーフになっているといえます。異文化の衝突-。そこでは常に未開なるもの、弱いものが駆逐される運命であり、マジョリティの論理に組み込まれるマイノリティとの関係は効率や利便性がいつも最優先されます。互いに相手を理解することの難しさという側面では、今回の映画も、ぼくの心の根っこでつながっている作品だと思っています。

斜陽化が進み、いつしか、松竹もつぶれ、ずいぶん、映画館がなかった時代が続いたようですが、今から、11年前に、現在の支配人さんたちがNPOを立ち上げて、かつての場所を改装してスタートしたシネマ尾道。映画の街、尾道に映画館がないのはさみしいと、全国のミニシアターを回って、経営モデルとなる劇場をリサーチしたようです。わが青春の街である尾道の、暗闇の中で、たわいもない妄想力を育んでいたその劇場で、自分の作品を上映していただけるのはこの上ない喜びです。僕にとってのニューシネマパラダイスです。
ぜひ、地元の方は見に来てください。僕は公開前に宣伝のため、お邪魔します。
新井さん、こう君も初日舞台挨拶に来てくれます。わが青春の街を案内したいと思います。

ニューシネマパラダイス尾道編

3年間の船通学について―。

片道1時間の船は、たぶん100人乗りくらいの船だったような気がしますが、船底がカーペット敷きで、なぜか僕の島からの男子高校生だけの空間がありました。3年生が船首の側に座って、1年生、2年生が先輩に向かって正座をさせられて、毎日セッキョウをされていました。先輩に対する挨拶がなってないとか・・・よくあるアレ。船底のカーペットの間は僕の島の学生で占められて、ドアをあけ、船底に降りてゆく構造になっていました。一般客や他の島からの学生は入れません。かつて、「あの船は高校生ヤクザの通学船だ」と新聞にも何回かたたかれました。他の島から乗り込む高校生はそんな僕の島の特殊事情はあまり知らなかったようです。

高校生といっても、尾道に通う学生は、それぞれ、別の学校に通っていたので、中学の時の先輩というだけで、高校では何のつながりもなかったのですが。僕の高校へは島からは僕一人だけだったので、もともと、かなり、浮いた存在だったのですが、最上級生の3年生になるまで、我慢できなかった僕は、ある日、デッキで先輩とやらかして、殴り合いにはならなかったのですが…、少しなったような気もします。記憶が定かでありません。えてして、殴った方は忘れて、殴られた方が覚えているもんですが、どっちだったか。僕は翌日から船底から、デッキの一般客室に移動。その日から、他の学生とは一言も交わさない3年間が続きました。ほんとはパッチギのような大乱闘でもあれば、新聞が書き立ててくれたかもしれませんが、そんな勇気もなかったので、同級生たちにもあまり知られることもなく、仲間外れの3年間を過ごしました。でも、自分ではさみしくもなく、清々した気分でした。
現在では、少子化とともに島の小学校や中学校は統合や、廃校になり、島から尾道への航路はなくなりました。当然、船通学の悪しき慣習も僕が故郷を離れて、やがてなくなりました。

帰りはクラブ活動(バレー部)に明け暮れていたので、最終便で帰り、他の学生たちとは顔を合わすことは一切ありませんでした。当時は、通学船の慣習が嫌だったので、尾道北高での都会的な明るい校風に救われていました。
しかし、小学・中学時代は都会に憧れていたものの、本土から島に通ってくる新任の先生の、島に対する視線にはがっかりしたものでした。赴任当初の、汚いもの、貧しい無知なものを見る先生の差別的な視線を感じ取って、苦々しく思ったものでした。子供たちは新任の先生がまず、最初にどんな気持ちで自分たちを見ているか、敏感で一瞬で読み取るのです。僕はと言えば、島の子供たちから疎外されている新任先生の何人かには興味があって、なぜ、島の子供たちは、あんないい先生をいじめるのか、わからないという、どっちつかずの子供でした。赴任してきた先生のことを大好きではないけれど、先生がもたらす知的なるものに、憧れていた子供でした。
大学進学で、逃げるように出ていったふるさとですが、都会で疲れ果てた時、いつも癒してくれる存在でもありました。孤立していたと思っていた僕を見守ってくれていた友もいたことも、後にわかってきました。
ふるさとは、矛盾した、愛憎半ばの不思議な存在です。

シネマ尾道について

今度お世話になるシネマ尾道は11年前、NPOで再開した改修工事の時、母校・尾道北高の先輩、大林宜彦監督が監修に尽力されたようです。(シネマ尾道HPより)
大林さんといえば。角川映画の「尾道3部作」で一世を風靡した郷土の名士です。でも、当時、僕は、個人的には「尾道3部作」があまり好きになれなかった。軟弱な女子供を相手のふわふわした作品だと、生意気にも上から目線で思ったものでした。ひねくれものの僕は何か得体のしれない美少女の醸し出す都会的センスに腹を立てていたのかもしれません。
だから、僕の中では、大林さんは、軟弱なものばかり作るあまり好きな監督ではありませんでした。
でも、山田太一脚本の「異人たちとの夏」には衝撃を受けました。この監督は大人の映画を撮る人なんだと、目からウロコでした。実はのちに知ることになるのですが、ほんとは撮りたい映画をずっと我慢していたんだと知りました。監督の本当に撮りたい映画はシリアスすぎて客がはいらないからと、プロデューサーでもある奥さんから、企画のたびに、何度も止められていたといいます。でも、近年、大林さんは堰を切ったように続々と、意欲作を発表しています。
この夏も、残された人生を生き急ぐかのように、最新作を撮影している先輩の活躍を僕はとても尊敬しています。僕も郷土に何か恩返しができるだろうか・・。

新井さんとこう君の決断

とても久しぶりの監督ノートの更新です。
新井祥さんとうさきこう君が2020年8月1日に届け出た結婚の話です。
既に、新井さんの最新刊「真夜中のナイショ話」や二人が発信しているRADIOTALK.jpでもそのいきさつをユーモアたっぷりで発表しています。
二人が16年前に専門学校で出会ってから、2年目から一緒に住み始め、パートナーとして暮らしてきましたが、映画を撮っている時、時代環境が少しずつ変わり、自治体がパートナーシップ制度を認め始めていました。もし、彼らの住んでいる街が制度を認めるようになったら、申請しようかと言ってた新井さんですが、結局、戸籍は女性のままだった新井さんはこう君と結婚という形を選びました。


昨今では、さすがに、LGBTQを認めると、生産性がないとか、日本の家族制度が壊れるとか、時代錯誤の言い回しを聞かなくなったと思ってた矢先に、どこかの議員がまた、「失言」をして議会で謝ったというニュースがありました。時代が少しだけ進んだのかと思っていましたが、表面に出てこないだけで、人の心のうちには「差別」「排除」の意識は依然として無くならないんだなと、暗鬱とした気分で過ごしていました。


新井さんは自身の性自認を「男でもない、女でもない何か」と宣言しています。
これは大変厳しい生き方を選択してきたことになります。男とは、女とはどういうものかは我々は漠然と認識してきたけれども、新井さんは社会が認めてきた二つの性別の概念を拒絶して生きてきたということです。
この世には男と女しかないという、これまでの社会通念だった性別二元論は間違いであり、男と女の境界はいくつものグラデーションがあるといっても、いわゆる一般の人にはわかりにくい表現となってしまいます。失言議員のような人は、長い間信じてきた自分の価値観を壊されるのが怖い人なんでしょう。またLGBTQの当事者と接点を持たない、待ちたくないという人なんでしょうね。百歩譲って、待ちたくないのであればそれでいいけれども、せめて彼らの人生を生きづらいものにする社会の仕組みに加担しないでほしいのです。新井さんはそうした人たちの価値観を表現者として存在することで壊したいと思って生きてきた人です。


当事者も生きてゆく中で、なかなか進歩しない社会通念に対して、おりあいをつけながら生きてゆくしかないのです。
二人の決断は、生きづらさを感じている若い当事者に、パートナーを持つことの喜びや勇気を、生きたメッセージとして伝えてくれる福音になることを願っています。

随時更新します。お楽しみに!